original
著者:寺本愛
編集:後藤知佳
書籍設計:明津設計
離島に住んでいた時期の日記をベースに書かれた小説作品です。
慣れない土地での生活の手記と、その狭間から語られる「記憶」と「居場所」の話。
7月10日
『いつもであれば、夜に部屋から漏れる光に引き寄せられ窓に衝突した虫の死骸を、朝になると雀がついばみにやってくるが、今朝はさえずりが聞こえなかった。白いレースカーテンの繊維の隙間を弱々しく通り抜けた太陽光が室内を薄暗く照らしている。カーテンを寄せ、窓を開けると湿っぽい空気。静かな小雨。
この日は絵衣子が生地の柄をデザインしたテキスタイルメーカーの発表イベントに出席するため、引っ越してから二週間ほどしか経っていないが、絵衣子は再び東京に戻ることとなった。ついでにいくつかの打ち合わせもまとめてやってしまおうと、一週間ほど滞在することにした。以前から決まっていた予定ではあったが、絵衣子は東京に用事があるのが嬉しかった。
西之表港は島の北部、二人が住む南種子は南部で、空港は島の中央部の中種子にある。港よりも空港のほうが家から近いことと、鹿児島港から鹿児島空港への移動を考えると飛行機を使ってしまったほうが楽なので、絵衣子はバスで一時間ほど揺られ空港へ向かった。島から成田・羽田への直行便はないので鹿児島で乗り継ぐことになる。
次第に雨脚は強まり、「鹿児島空港からこちらに向かう使用機材が着陸できたら運航します」という、その通りなのだがどこかもどかしいアナウンスが流れる。ささやかな土産物店が併設された小さなロビーでは絵衣子の他に三〇人ほどが待っている。外の雨音は中にいると聞こえないが、滑走路脇のシュロは風雨に煽られ振り乱れていた。しばらくたって四〇席もないプロペラ機が着陸し、乗客は空港が用意した赤い傘を差しながら、ぽつぽつと滑走路を歩いて機体に向かう。傘を地上係員に返し、機体にかけられた細いタラップをあがり、頭を屈めて暗い機内に入る。通路を挟んで一列席と二列席があり、一列席のほうに絵衣子は座った。座席のポケットには「安全のしおり」の他に、航空会社の社員が手作りしたというA3用紙を四つ折りにした機内情報誌が挟まっていた。絵衣子はひと通り目を通した後、入り口で添乗員から配られた飴を気休めに口に入れた。
「脱出」という言葉がぴったりだと、眼下の鬱蒼とした森を眺めながら絵衣子は思った。島は沈黙している。雨は波打つように吹き荒れている。山霧が熱い湯気のように湧き立っている。』